内藤 信正(ないとう のぶまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・譜代大名。近江国長浜藩の第2代藩主、摂津国高槻藩主。伏見城代を経て、初代大坂城代となる。

生涯

永禄11年(1568年)、のちの長浜藩初代藩主・内藤信成の長男として生まれる。 

天正12年(1584年)16歳で小牧・長久手の戦いに参加、その功を徳川家康に賞せられる(「寛永諸家系図伝」)。天正14年(1586年)には19歳で大番頭となり、同18年(1590年)の小田原征伐、19年の九戸政実の乱などに従軍した。

文禄4年(1595年)従五位下・紀伊守となり、また家督を継いで慶長11年(1606年)、長浜城に住した(※)。慶長20年(1615年)の大坂の陣では尼崎城の守備にあたり、同年閏6月采地をあらためて摂津国に移封され、高槻城を居所とした(高槻藩)。元和3年(1617年)伏見城代となり、1万石の加増を受けて摂津国内に転封、あわせて5万石を領した。同5年から大坂城代を務める。寛永2年(1625年)知行を近江・山城・紀伊に移され、翌3年大坂城において死去した。享年59(以上「寛政重修諸家譜」)。

  • 家督相続について、「諸侯年表」では慶長17年説を記すが、典拠とされている「藩翰譜」には所見がない。「寛政重修諸家譜」には「某年」とのみ記されており、正確には不明である。

系譜

子女は「寛政重修諸家譜」が記すのは次の5男5女である。記載の順に示す。

父母

  • 内藤信成(父)
  • 粟生長勝の娘(母)

正室

  • 石川康通の娘

子女

  • 内藤信照(長男)生母は正室
  • 内藤信武(次男)
  • 内藤信之(三男)
  • 内藤信直(四男)
  • 内藤左近「某」。「内藤家譜」(国立公文書館蔵)では早世と記されている。
  • 金森重次正室
  • 水無瀬氏信室
  • 家臣内藤信義室
  • 堀親昌継室
  • 植村泰朝正室

脚注

出典

  • 『寛永諸家系図伝』8巻 続群書類従完成会、1985年 63より64頁 
  • 『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年 199より200頁 
  • 国立公文書館所蔵「内藤家譜」(請求番号:157-0205)丁目:25
  • 『内閣文庫蔵 諸侯年表』東京堂出版、1984年 831頁
  • 『新編 藩翰譜』2巻 新人物往来社、1977年 103頁

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F914 内藤信成