鷹司家(たかつかさけ)は、藤原北家嫡流近衛家庶流の公家、華族だった家。公家としての家格は摂家。華族としての家格は公爵家。近衛家実の四男兼平が祖。家紋は鷹司牡丹。
概要
中世
兼平は、鎌倉時代中期の1252年(建長4年)に摂政・藤氏長者宣下を賜り、近衛家領荘園を分割で継承し、後に姉の長子(鷹司院、後堀河天皇中宮)の所領も相続し、新しく鷹司家を創設することとなった。
家名は兼平の邸宅が鷹司室町(鷹司小路、現在の下長者町通と室町通の交叉する一角)にあったことに由来する。楊梅小路に面した猪隈殿も伝領していたため、楊梅殿とも称される。なお、京都御苑内に江戸時代の鷹司邸宅跡地を示す標しが立てられている。
家紋は鷹司牡丹紋。近衛牡丹紋が牡丹のしべを真上から見下ろした形であるのに対し、鷹司家は側面から見た形になっており、5本のしべがデザインされている。代紋は花菱。
戦国時代の鷹司忠冬には嗣子がなく、1546年(天文15年)にその死をもって鷹司家は一度断絶した。
近世
絶家となって30年余を経た1579年(天正7年)、二条晴良の三男信房が織田信長の口添えにより家名を再興する。
近世の所領の表高は織田信長の頃に300石、江戸時代の始めは1000石、江戸中期は1500石
鷹司信房は豊臣秀吉と親交が深く、鷹司家には秀吉愛用の茶道具が伝来されていた(第二次世界大戦時に空襲で焼失)。
江戸幕府3代将軍徳川家光の御台所孝子、5代将軍徳川綱吉の御台所信子、13代将軍徳川家定の御台所任子は鷹司家の娘である。
信房の四男(孝子の弟)にあたる信平は江戸に下って幕臣となり、松平姓を与えられて7000石を知行した。信平の孫の信清の代に1万石となり大名諸侯に列している(矢田藩、のち吉井藩主)。同家のついては鷹司松平家を参照。
江戸時代には父子間の家督相続が上手く行かず、第18代房熈と19代尚輔が近衛家より養子に入り、20代基輝は一条家より養子となっていずれも嗣子に欠け、閑院宮直仁親王の第4王子(淳宮)が養子に入っている(鷹司輔平)。
23代当主鷹司政通は仁孝天皇・孝明天皇から絶大な信頼を得て約33年にわたり関白を続け、宮中最大の権力者として君臨し、後に孝明天皇から太閤の称号を許された。これは秀吉と並ぶ例外的な措置であった。しかし、安政の大獄の際に幕府の弾圧を受けて落飾した。
近代以降
幕末の関白だった輔煕は明治天皇が東京に行幸した際にお供をし、皇居半蔵門近くの旗本屋敷を邸宅として下賜されたが、住み慣れた京都を恋しがり、やがてこの邸宅を返上して帰洛した。旧臣を使ってナタネ油の製造販売の店を始めたものの、失敗して数年で閉めることになり、再び東京に移住して麻布本村町(現在のフィンランド大使館および料亭・有栖川清水)に邸宅を所有した。後に目黒区上目黒に邸宅を移した(上目黒の邸宅は第二次世界大戦中に米軍の空襲で焼失している)。その後(鷹司信輔の正妻綏子が徳川家達の次女であったことから)千駄ヶ谷の徳川宗家邸宅の隣に移り住み、戦後に津田塾大学の校舎として貸し出されていた時期がある。
明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると、鷹司家も旧公家として華族に列した。輔煕の嗣子輔政は幕末の1867年(慶応3年)に22歳で実子なく死去しており、九条家から煕通が養子に入り、明治5年8月20日に家督を相続している。
明治3年12月10日に定められた家禄は、現米で526石7斗。明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は1万8459円2銭9厘(華族受給者中241位)。明治前期の煕通の住居は東京府麹町区上二番町25。当時の家扶は磯村定之。
1884年(明治17年)に華族が五爵制度になると煕通は旧摂家として公爵に叙せられた。1905年(明治38年)には煕通の次男鷹司信熙が分家として男爵に叙された。なお分家の吉井藩主だった鷹司松平家は維新に際して「松平」から「吉井」に改姓し、子爵に叙されている。
煕通は孝明天皇皇后(英照皇太后)の実弟であり、昭和天皇国母である貞明皇后には叔父にあたり、陸軍少将で、大正天皇の侍従長を務めたことで知られる。
息子の信輔は「鳥の公爵」と呼ばれた鳥類学者で、『日本鳥類史』『飼鳥』などの著作があり、遺稿の『鳥類志』と『オーム考』は海外からも反響を呼んだ。昭和天皇とは近い親戚というだけでなく、生物学を通じて信頼が深い間柄だった。明治神宮の宮司も務めた。
信輔の息子平通は、1950年(昭和25年)に昭和天皇の第3皇女和子内親王と結婚した。旧五摂家・公爵家の嫡子とはいえ日本交通公社のサラリーマンとして満員電車で通勤していた平通と内親王が結婚したことは、戦後の開かれた皇室として大きな話題になった。しかし平通は、1966年(昭和41年)に行きつけの銀座のバーのマダムとガス中毒死した。夫妻に実子は無く、養子尚武(平通の妹章子と松平乗武夫妻の長男、平通の甥)が当主を継いだ。現在の鷹司家は、大給松平家からさらに鍋島氏を経て、血縁の上では少弐氏の男系子孫となっている。尚武はNEC関連会社社長などを務めた後、伊勢神宮大宮司を経て、2018年(平成30年)から神社本庁統理を務めている。尚武の長男に尚通(昭和49年6月6日 生)がある。
歴代当主
鷹司宗家
鷹司松平家 → 吉井家
鷹司松平家を参照。
鷹司信熙家
- 鷹司信熙(1892年 - 1981年)男爵に叙される。 鷹司煕通公爵の次男。
- 鷹司信兼(1920年 - )
系譜
輔尚
脚注
注釈
出典
参考文献
- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
- 石川健次郎「明治前期における華族の銀行投資―第15国立銀行の場合―」『大阪大学経済学』第22号、大阪大学経済学部研究科、1972年、27 - 82頁。
- 石井孝太郎『国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑』深沢堅二、1881年(明治14年)。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/61 国立国会図書館デジタルコレクション。
- 大久保利謙『日本の肖像 旧皇族・華族秘蔵アルバム〈第9巻〉』毎日新聞社、1990年(平成2年)。ISBN 978-4620603193。
- 刑部芳則『京都に残った公家たち: 華族の近代』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー385〉、2014年(平成26年)。ISBN 978-4642057851。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年。ISBN 978-4121018366。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『昭和新修華族家系大成 別巻 華族制度資料集』霞会館、1985年(昭和60年)。ISBN 978-4642035859。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
- 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第9巻』吉川弘文館、1988年1月1日。ISBN 9784642005098。
系譜参考
- 日本の名字七千傑「藤原氏師実流」
- 公卿類別譜「鷹司」 - ウェイバックマシン(2006年6月28日アーカイブ分)
- 公卿類別譜「吉井」 - ウェイバックマシン(2006年6月28日アーカイブ分)
- 大名家の系図を現代までつなげてみる「鷹司家」
- 世界帝王事典「鷹司」
- 世界帝王事典「鷹司松平家」
関連項目
- 摂政・関白の一覧
- 鷹司氏



